UTA TO WAKARE.

傷ついても陽を浴びた要約がある

紅白のことなど

年が明けた。大晦日は所々、紅白をみるなどした。
昨年の紅白は第二部に限ると、歴代最低視聴率を記録したという。

これだけ娯楽の選択肢が増えたなか、当たり前といえば当たり前の結果だろう。

しかし、紅白自体にも人々への訴求力を失う複数の要因があるだろう。

下衆の極みである椎名林檎は変わらず醜悪だった。代わりに川谷絵音が出ないものかと思った。

浅草キッド」を歌うために駆り出された北野武もいよいよアガリかと思うと寂しさしかない。

MISIAとフーリンはよかった。

美空ひばりAIは、端的に言って、死者の権利の侵害以上で
も以下でもないだろう。途中で席を立った。

星野源は、一切関心がないのでなんとも言えないが、戦争協力詩を書いてゆく四季派のようなものを感じた。誰にも文句を言わせない立場に立つものが、”fuck you”を“screw you”に言い換えようがどうしようが、知ったこっちゃないが、本当に恐ろしいのは、露骨に醜悪な椎名より星野だと強く思う。

繰り返すがMISIAは年々素晴らしくなっている。

審査員の上沼恵美子はひとり気を吐いていた。しかし、本来なら上沼さんの歌声が聴きたかった。「時のしおり」と言わずとも、「大阪ラプソディー」ですら今の紅白に受容できる知性はない。

年が明けた。
妻は今日から出勤している。家で猫と一緒に、三波春夫「決闘 高田ノ馬場」を聴いている。

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日本人に産まれてよかった!なんてこれまで1秒足りとも思ったことはないけど、日本語を解せて、また、ある種の旋律に感音できて、よかった、と思うことはある。三波春夫の歌謡浪曲もその一つ。この曲は、日本のプログレでしょう。日本のプログレは、四人囃子にでなく、三波春夫の系譜を継ぐべきだったと思う。

本年もよろしくどうぞお願いします。

佐藤さんのこと

きょう九月四日は、故・佐藤真監督の命日である。十年前の九月四日は、私は西宮の山の中にある病院の中にいた。新聞を読むことが日々の喜びであり、毎日ラジオ体操をした後は、朝刊に目を通す日々であった。退院の話が出始め、にわかに心がワサワサしていた九月中旬だったと思う。毎日新聞に、佐藤さんが亡くなられたこと、佐藤さんを追悼する映画批評家の記事が目に入った。

 

私自身が、しょうじき生きるか死ぬかの日々であった。入院先でできた、友人たちの力を得て、何とかもう一度、生きようとし始めていた時であった。

 

佐藤さんの訃報を知って、変な言い方ではあるが、驚きはなかった。いや、驚いたのは間違いないが、なんだか、「ああ、そうなんか…」と独りごちたと記憶している。

 

その後、十年前の九月下旬に私は退院し、三ヶ月のサマー・ヴァケイションのようなものを終えた。退院する前日、同じ病棟で知り合った人たちが、お祝いにと私を囲んで大富豪をしてくれた。あの西宮の山の中で出会った人びとの顔と名前、忘れたことがない。否、人びとがたとえ日々の雑事のなかでさまざまなことを忘れていくとして、「おれは忘れない」という一心で私はあれから十年なんとか生きてきたんだと思う。

 

東京に戻って、大学に戻って、ふと生協の本売り場を歩いていたとき、佐藤さんの随分とお痩せになった写真が目に飛び込んできた。佐藤さんのお別れ会が行われており、その際に配布されたろう冊子の表紙にその写真はあった。

 

私は、2001年に上京し、やや世を拗ねており、ひたすら焼肉屋でバイトをしては大学にはまったく顔を出さず、映画館にばかり通っていた。新文芸坐では大島渚特集に足繁く通った。新宿や渋谷に鈴木清順の特集のためにほぼ入り浸っていた。高校生のとき、どうしてもみたかったが見逃していた青山真治監督の『ユリイカ』を新宿武蔵野館でみられたときは、今後、映画と心中したいと思った。それがどんな形ではあれ、映画に携わって一生を終えられたらどんなに幸福だろうかと思っていた。

 

上京してはじめての夏が来ようとしていた。私は寂しかった。ほとんど誰ともことばを交わさない日々に耐えられなくなり始めていた。映画、映画、映画!と虚勢をはっていた。大学にまじめに通うような人たちを心底軽蔑することで、なんとか二足歩行を保てていた。しかし、しょうじきに言えば、誰かと話がしたかった。みた映画について、一言でも二言でもことばを交わせるひとが欲しかった。

 

佐藤さんがBOX東中野で、「ドキュメンタリー考座」という一年間、映画をみては対話を行う講座の企画をされることを、どこかの映画館のチラシでみて知った。これに賭けてみたい、そう思った。とはいえ、ドキュメンタリー映画ときいて、思いつく映画がなかった。私は、高校生時代、神戸の片隅で、ただただテレビに齧りつき、テレビ映画をビデオに録画しては繰り返し好きな映画をみていたような人間だ。地元の高校生として、劇場に通ったのは唯一六甲アイランドシネコンで『リング』をみたときだけだ。あとは、ひたすら、WOWWOWの番組表とTSUTAYAの映画特集のブックレットと、バウンスの映画音楽特集を睨み続けるだけの高校生だった。

 

そのドキュメンタリー考座には、十万円必要だった。バイトの量を増やした。飯を食うのが不経済な気がして、十万円が手もとに貯まった頃には随分骨ばった身体になっていたように思う。順序が逆と思われるかもしれないが、佐藤監督の映画をみたのは、BOX東中野の考座に申し込み、十万を振り込んだ後である。

 

『SELF AND OTHERS』をみたのがどこの映画館であったか覚えてはいない。ただ、うん、十万円ももう払った、この監督の考座とやらに、ひとまず賭してみよう、そう思ったことは覚えている。

 

それから、翌年の夏まで、佐藤監督のドキュメンタリー考座は続いた。しかし、私は秋冬をほとんど参加出来ていない。めちゃくちゃな生活と自分自身の東京へのコンプレックスと何ものにもなれないでいることの焦燥と、そのほかやはり一番は自分を持て余すほどの他人の温もりへの餓えと、それらが確実に私を蝕んでいた。

 

2001年、山形国際ドキュメンタリー映画祭に行ったあと、私は東京での生活が不可能となり、ただただ引きこもっては苦しい苦しい秋冬を過ごした。

 

山形の十月は寒かった。私はたぶん季節とか土地とか服装とか何も考えられないような阿呆で、ほとんど手ぶらに寝袋だけ持って山形へ行った。ドキュメンタリー考座で知り合った、Yさんやもう一人のYさんにはほんとうに世話になった。考座の世話人のSさんにもまた。

 

山形で、その年、佐藤さんはアジア千波万波の審査員をされていた。ロバート・クレイマーの特集をしている会場で、佐藤さんと会い、Sさんも居て、私が手ぶらで来たことを知ると、「藤本くんは、若いから少し苦労したほうがいいよ、たとえば、橋の下で寝袋で寝るとかさ、山形はもう夜は寒いよ」と笑いながら仰っていた。結局、Sさんのつてで、ゲストハウスにねじ込んで貰えたのだが、山形の十月はほんとうに寒くて、古着屋でジージャンを買ったのを覚えている。たぶん、ロングTシャツと下着の替えくらいしか持っていなかったのだろう。

 

 

佐藤さんは、何をしたいのか分からないでいるただただ映画、映画と頭のなかで唱えている18歳のガキに随分と良くしてくださった。

 

 

ドキュメンタリー考座での、佐藤さんの講義録はいまでも参加したぶんは全てとってある。Sさんが毎回用意してくださっていた資料などとともに。

 

 

その後、法政大学での佐藤さんの集中講義や、『阿賀の記憶』が上映される京都造形芸術大学での是枝監督との特集会など、場所を問わず、行けるときには佐藤さんの映画やドキュメンタリー映画に関する場に足を運んでいた。

 

 

ひとつ、ここに書き残しておきたいことは、佐藤さんが、私と私の友人Hの学祭での二人展にゲストとして来てくださったときのことだ。2002年の五月のことで、私とHは、バナナに関する二人展を行っていた。佐藤さんとバナナに関することでお話をしたことがあり、佐藤さんのテレビ・ドキュメンタリーである『日本NGO とバナナ村の10年』を上映させて欲しいとお願いすると快諾してくださった。そのうえ、前々日に「行きますよ、バナナに関すること、やるんだよねえ」と仰って、二人展に顔を出してくださった。隣の部屋が、バンド演奏か何かをしていて、上映環境としてはあれだったに関わらず、佐藤さんと10名足らずの来場者と私たちはそのテレビドキュメンタリーをみつめていた。佐藤さんに一言お願いすると、「ええっ!」と仰りながらも、バナナのことや映画のことを30分近く話してくださった。

 

 

佐藤さんが亡くなられたあと、私は結局八年かけた大学を中退し、帰郷してサラリーマンになった。その会社も一年半しか勤めず、いまは詩など書いて生きている。映画のことを頭から消したことは一度だってないが、劇場に足を運ぶ回数はめっきり減ってしまった。

 

 

佐藤さんとお会いしたら、ぜひ話したかったことはいくつかあったはずだが、たとえば『鉄西区』のことやアレヤコレヤ、あったはずだが、いまは思い出せない。

 

最後にお会いした時、いつものようにレモンサワーを呑みながら、「そんなだから藤本くんは留年するんだよ」と笑ってらっしゃった顔、忘れられない。そう言いながら、藤本くんは貧乏そうだからと言って、私の飲み代を出していただいたこと、忘れられない。

 

佐藤さん、私はなんとかやっています。

佐藤さんにはじめてお会いした時から十七年も経ってしまいましたが、私はなんとかやっています。

 

いつか、佐藤さんの御恩に報いられる仕事を成そうと思い続けていまも、生き続け、書き続けています。

同時代ドキュメンタリー作家に関する一考察(2010.8.)

 「他者=他なるもの」とは、おそらく、この「わたし」に特有の体験からやってくる共感や理解をはねつけるような固有の実存を抱えた存在だろう。 梶井洋志の制作した『遺言なき自死からのメッセージ』は、そのことを強く意識させる。梶井は、父親自死という体験の意味を共有すべく、同じように近親を亡くした大学の後輩にアプローチしていく。自分自身の形容しがたい感情や想いをなんとか他者と共有する目的で、あくまで、「わたし」自身の事情から、言い換えれば、「私性」から出発していると云えるだろう。しかし、その被写体である後輩は、カメラを持って近づいて行く梶井にとって、圧倒的な他人としてスクリーンに描き出される。執拗に自死の原因を求める梶井に対し、後輩のほうは、そんなことは解らないし、いまとなっては興味もないし、さらには「おかあさんにとっては死が幸福だったかもしれない」とまで漏らすのだ。同じ、近親の自死という体験を経ていても、二人の認識には余りに大きな隔たりがある。その認識の差にぶつかったうえで、なお、何故彼女の母親が亡くなったかを追い求めて行く梶井の姿は、一種異様であり、その行動は不可解にさえ映る。しかし、結果的に、梶井自身が(観客である、「わたし」にとっては)とても理解できないような行動に出ていること自体、そこへと向かわせる衝動の強さを浮き彫りにし、同時に、近親を亡くすことの言表しがたい重さという次元での「理解」を生み出している。

そのことは、映画のなかで何度も挿入される梶井の子どもの頃の家族の記録映像のなかに、一切父親が姿を見せず、あくまでその「声」のみを残していることや、亡くなった場所である階段を梶井が何度も観客に提示せざるを得ないこと、ある決定的な時間と場所で作家自身の時間が永久にとまってしまっているかのような事態からも、如何に作家自身が観るものにとって最大の「他者=他なるもの」として出現してしまっているかを痛感させられる。梶井洋志は、処女作の題材として、一見極めて「私性」の要素の強いものを選んでいるが、観終わったものに残されるのは、如何に「わたし」の実存から発せられる声を気にかけ、それに答えることがむつかしい行為であるか、というその一点だ。梶井は、その声高に思える「何故、亡くなったと思いますか」という質問の繰り返しの裏で、自身のかぼそい実存の声を、「他なるもの」の声を、ひっそりと共鳴させている。

梶井の作品が、「私性」から出発し、その「わたし」の時空間を氷結させることを経て、「他なるもの」を提示することに成功しているのに対し、『空っ風』(中村葉子)は、「他なるもの」の声に寄り添うこととそれに応ずることの狭間で引き裂かれることを、実直に選びとった作品と云えるかもしれない。再開発の波にのまれる千里ニュータウンにおいて、圧倒的に強者であるリクルート・コスモス社に訴えられ、立ち退きを迫られる被告として裁判闘争を続けるひとびとの、悲痛なまでに小さな叫びや怒りに、あくまで寄り添おうとする中村の姿勢は、何が正であり何が不正であるのか、その根拠が曖昧化され、相対主義の隘路に陥りがちな現代において、不正の根拠という理知的な面からだけではなく、ひとの生存にとって何が守られるべきことであったのかを事後的に説得させるような力強さと繊細さを兼ねそろえている。それは、丹念に「他なるもの」の声に耳を傾け、寄り添うことで成立しているのだが、一方でこの映画が終盤に向けて、ともすれば幸福とは云えない被写体との関係に向かって行かざるを得ないのは、「他なるもの」の声に寄り添うことと、それに応じて、その要求を実現しようとする「わたし」の行為が、必ずしも一致しないことの証左だろう。

こと『空っ風』に関して、制作者が当事者以上に当事者であろうとする態度は、制作者の表現欲求だけに還元することはできそうにないし、観終わって二ヶ月経つ現在においても、歯切れ良い答えを自分自身のなかで用意できそうにもない。ただ、被写体の哀しみとそれに寄り添うことを単純には貫くことのできない制作者の哀しみという、二重の哀しみを経た、「他なるもの」に接していくうえで直面せざるを得ない、「引き裂かれ」のただなかにあって、監督である中村の誠実さは一度もぶれているとは云えないだろう。「わたし(たち)」は、そこから出発していくことしかできはしない。

 

(「彷徨する魂〜NDUからNDSへ〜」へ寄せて)

寺山のこと

一と二、主体の傷。

それがタイトルである。ここ一年近く寺山修司について小論を書こうとしてきた。タイトルが一週間まえに決まった。題が決まると、茫洋としていた考えが、ある程度輪郭を持つ。持ち始める、から不思議だ。いぜんのタイトルは、その意味では名付けることによって余計に混沌とするものだったので、おそらく題として不適格だったか、題を付ける過程に無理があったのだろう。

さいしょは、ジャンルについて書こうとした。ジャンル横断をする仕事をしながら、寺山自身が、あなたの仕事はなにかと尋ねられ「寺山修司という仕事をしている」と即答したらしいことに関心があった。「劇作家」でも「詩人」でも「歌人」でも「俳人」でも、或いは「作家」でもなく、自身でも他人からも「寺山は寺山修司という仕事をした」と言われることの幸福とか不幸について思いが巡った。幸福ということが頭を過ったのは、寺山自身がこの概念に異様に拘りを持っていたからでもある。

寺山修司が拘りを持つ言葉に「健康」とか「幸福」とかいうものがある。或いは「自由」であるとか。

これらは、寺山修司の内部で屈折をみないかのように差し出されるのが不思議であった。確かに、陰気で不健康で不自由そうに見える戦後の文芸や芝居の空気への反発もあったろう。しかし、その反発からといういじょうに、健康や幸福を肯定する時、そこで担保になっているのが、「想像力」とか「自由」という言葉への寺山修司特有の捕まえ方があったように思う。

ーーどんな鳥だって
  想像力より高く飛ぶことはできない
  だろう

「事物のフォークロア」のなかの有名な詩句である。

たしかこのパッセージに接したのは十代終わり頃であったが、なんとも素朴なことを言う人だと思った。たとえば「想像力は死んだ。想像せよ」という警句を知ってはいた者にとって、いっしゅ素朴にすぎるように、何を暢気なことを…と映ったわけだ。

しかし、この寺山修司の詩句の含意には、想像力の素朴な肯定というより、想像力が行為を規定し、限界づけることという少しばかし苦い認識の方へおそらくはアクセントが置かれている。

永山則夫との長い応答の中で、たとえば寺山は自身を「劇のなかに現実を求める」のに対して永山を「現実のなかに劇を求めた」と規定する。そのあっさりした断定がいかほど永山事件を引き起こした少年永山の心理を言い当てているかは知らない。しかし、上記のような規定を行うとき寺山修司の頭にあったのは、「世界の涯は見えるところまでにしかない」という認識だろう。

寺山は、二つのものをよく比べた。いや並べたという方が適切か。歴史と思い出、記憶と愛、経験と物語。「二」という数にこだわって二つのものを並べる手つきには、やはりというべきか性急さと快楽が並びあっている。長谷川龍生が指摘するように、その間で熟してゆくものが見当たらないのだ。

寺山修司は傷を持たない。

そういう結論だけが直感としてある。それは、抒情主体が負う、或いは負いうる傷を受けないということだが。

戦後詩の論争において、ひときわ異臭を放っているようにみえるのが、この抒情主体は作者と乖離しうるか、という論点だと私は感ずる。

1960年代後半に、入沢の提起した「詩は表現ではない」というテーゼ。一般に、詩行における「話者」と「作者」を切り離したとされるあれ。

詩行を書くものと詩行内の語り手はたしかに別の主体である。そこまでは、おそらく誰しもが納得しうる(だろう)。

しかし、こと抒情詩という形式において、「話者」が「作者」と無関係にいられるのか、その焦点に向かって(解読しづらくはあるが)、無関係ではいられない、と執拗に繰り返したのが北川であった。

入沢ー北川論争に寺山修司がどういう感じ方をしていたかはわからない。関心がなかったようにも思える。寺山修司の詩行における航路は、戦後詩のコアとされているものと、それ程錯綜したとは思えない。寺山修司の書いた詩行の伸びやかさ、健康さ、そして性急さは、戦後詩の悲壮感、シンタックスへの過剰な意識等からみると極めて異例に映る。

黒田喜夫寺山修司の対談が、今回の小論のハイライトとなる。

寺山修司単勝に賭ける競馬ファンのありようを「ローマン主義」として、忌避したように見える。競馬は、自分の似姿を一等の馬に求める抒情詩であってはならない、と。

では、一、でなく二なのか。二頭の馬の対抗するストーリーを競馬の本質としたのか。

様々な場面で、二つを並べる行為を繰り返したようにみえる寺山において、その答えは異なっていた。

出走する競走馬が八頭いれば、八つの叙事詩が産まれる。

寺山の回答には、図らずも「叙事詩」という言葉が浮上する。

じつは、寺山修司の詩的出発である「地獄篇」には、長編叙事詩という冠が着いていた。

一、を忌避し、二、で回収されず、多、を用意して出発した寺山が、果たして、書くという行為自体の経過において、「無傷」であったと言い得るのか。

それでも、傷は負わなかったと云って良い。

抒情主体が書くという行為において、語り手から反射される書き手の傷というものは。

それはなぜか。

その謎を説明すべくここ数日胃が痛んでいるのであった。

(ここには記事を書かないとある人に告げながら、めのまえの原稿からの逃避で書き殴ってしまった)

 

(2014.6.24)

散文という要求

韻文への態度がまだずっと牧歌的であり得た時代があったとして、そのさなかから散文への矜持と餓えを内包させていた者たちだけが、彼らの書き残したもののなかになお息継ぐことを可能たらしめている。個々の独立した詩行をひとつ、またひとつと数え上げる仕草が無媒介に詩史という堆積を形づくることはないが、かといって、詩の外部へと安直に繋がろうとする行為はあらかじめ詩に内部と外部があるかのような錯視なくしては成り立たない。ゆえに、詩が、詩こそがその者を遠ざける。