UTA TO WAKARE.

傷ついても陽を浴びた要約がある

Stilling, Still Dreaming. その1

思えば、随分と遠くへ来た。

この10月で岡山での精神科訪問看護の仕事に就いて、2年半が経つ。ピアスタッフ兼看護師として、ようやっと自分なりの訪問スタイルを確立できるようになった。
精神科訪問看護は、アウトリーチと呼ばれるように、利用者さんのお宅にお邪魔し、なにがしかの支援を行っていく。訪問車には、薬、血圧計、体温計、サチュレーション・モニターの他、マラルメの詩集や天文雑誌、釣り道具などが積んである。どれも訪問に必要なものだが、僕は基本的に体温計、薬以外は手ぶらで訪問を始めることにしている。僕らにとって一番の武器になるのは、自分自身の心と身体なので、できるだけ身軽な方が良いからだ。そして、何よりも僕らの訪問先では、過去の経験から、強烈な医療不信を持っておられる方もいるので、血圧計ですら彼・彼女らを無意識のうちに脅かしうることがある。そういうことは是非避けたい。だから、身体科の既往があって血圧測定がマストな場合を除いて、ほとんど手ぶらで僕は、お宅へ伺っていく。対話と少しのバイタル。これが僕の手持ちの武器の全てだ。そして、これで大抵なんとかなっている。日々、通い詰め、馬鹿話や笑いや少しホッとできる瞬間や、時にはほんとうに辛くシリアスでどうしようもなく不条理な話を聴く瞬間や、ただただその時間を積み重ねていくこと。それが、利用者さんのリカバリーにボディブロウのように効いていく。そして、その積み重ねられた「時間」が、クライシスに陥ったとき、どうしようもなく病院へ入院せざるを得なかったとき、その方にとって望みを捨てないでいられる、小さな小さな石礫となる。そういうことを僕はこの2年半で身に染みて学んだ。さらに、その利用者さんと僕の「あいだ」にある時間こそが、僕自身を癒やし、自身の在り方を見つめ直させ、何よりも僕をリカバリーの途上へと導いていったのだった。

15年前、2007年の10月は、友人と仙台に旅行に行った。
西宮の山の中にある精神科単科の病院から3ヶ月に渡る入院を経て「娑婆」に、「下界」に、降りてきてすぐの頃だった。フルキャストスタジアム宮城に、友人と楽天を観に行った。というか、山﨑武司を観に行ったのだった。入院中、山﨑の背番号の書かれたリストバンドを左手首にずっとつけっ放しにしていた。なんとなく、御守りのようなものだった。山﨑はホームランギリギリの大飛球を放った。レフトフライだったか、レフト線への大ファウルだったか、今になっては思い出せないでいる。生涯阪神タイガースのファンである自分であるが、2007年の山﨑武司には、異様に惹きつけられていたのだった。

時間を3ヶ月ばかり巻き戻そう。
2007年6月17日の夜更け頃、僕はある一室で4人くらいの警察官に囲まれ、精神保健指定医に聴き取りをされていた。医師は言った。「ここで、嘘ついたらあきませんよ。」僕は、医師に問われた事項のうち、東京の家にある薬のストックの種類についてのみ答えた。それ以外は、黙秘していた。パトカーに揺られ、一緒にここまで来ていた母親が、隣でどういう表情をしているのかは窺い知れなかった。ただ、1人の警察官が机に腰掛けて、脚をぶらぶらさせているのが、僕に妙な感じを与えた。その後、暗い廊下を1人の看護師らしき人に案内され、突き当たりの部屋に通された。蛍光灯の白い光のなか、部屋の六面がすべて緑色であった。おまるの剥き出しの便座、ベッド、鉄格子のついた窓。促されるまま、ベッドに寝かせられた。抗う気もなかったが、きっとここで処刑されるんだろうな、という確信とここは病院であるらしいな、という感覚のなか、ベッド上で四肢を拘束され、胴体もバンドのようなものが巻かれ、近づいてきた白衣の人に無言で右上腕に注射を打たれた。嗚呼、こういう死に方は友人たちや家族に申し訳ない気がした。施錠された分厚そうなドアの上には監視用なのか、モニターが設置されていた。最期に、何をしようかと思って、なぜかマスターベーションでもしようかと思ったが、腕は両側ともバンドで拘束され動かせないので、そういうものか、と思い、眼を閉じた。隣室からなのか、「看護師さん、看護師さん、×××ですよ!」という叫び声がずっと聴こえていた。翌朝眼を覚ましてから、僕の3ヶ月に渡る、ロング・サマーが始まった。

保護室と呼ばれる部屋に居ることは、翌朝食事と髭剃りに来た男性看護師が教えてくれた。「ここは、西宮の甲山というところにある病院です。それだけは覚えていてください。」と言っていた。相手の眼が血走って涙ぐんでいるように見えたが、単に寝不足だったのか、それとも僕の置かれている状況になにがしか、思うところがあったのか分からなかった。僕は、石原慎太郎を暗殺しようとし、それが事前に露見して、公安に追われていた。今となっては、妄想と呼ばれるような現象であろうが、精神の当事者にとって押し並べてそうであるように、「妄想」は当人にとっては一個の現実に過ぎない。僕は、政治犯として捕まっていると確信していたので、食事摂取は当然拒否した。そして、ハンストと緘黙を貫いていた。日が沈み、また日が昇り、日が沈みまた日が昇った。この天井含め全ての面が緑色の部屋で、3日が経過していた。毎日、男性看護師が代わる代わる、食事と薬を持ってきた。食事は拒否できていたが、少なくとも薬は飲んだフリをするまで、その場を皆離れなかった。黄色い丸いラムネのような薬。今ならば、ジプレキサのザイディス錠であったことが分かるのだが、その緑の部屋に居る僕に勿論、配られる薬の名前など伝えられることはなかった。何か自白を強要されるような薬と思っていた。ただ、口に含むとこの黄色い薬は、溶けてしまうのだった。ハンストを続けて3日目、この薬を飲み始めてみて、異様に腹が減ることにきづいた。空腹の絶頂のタイミングでカレーライスが運ばれてきた。僕は、嗚呼、これで石原に負けるんだなと思いながら、一口カレーライスに手をつけた。そこから二口、三口、四口と。気づけば完食していた。何かがその瞬間崩れ落ちた。依然、緘黙をつづけていた僕は、詰所らしきところに行き、身振り手振りと筆談で「ペンと紙が欲しい。」と伝えていた。小さなメモ帳とボールペンが要求通り、与えられた。そして、ここから本当の意味で「地獄」のような「戦場」のような閉鎖病棟での暮らしが始まったのだった。

(その2、へ続く。)