UTA TO WAKARE.

傷ついても陽を浴びた要約がある

R.I.P.

現代詩手帖2022年12月号「現代詩年鑑2023」が現在、発売中です。
僕は、アンケート「今年度の収穫」に回答しています。
今年度は、異様に良い詩集やアンソロジーが多かったように思います。自身、8月下旬以降体調の良い日が続いたこともあって、2022年度後半はヴィヴィッドに詩の言葉に反応できる回路が開かれており、ここ5年でいちばん文学を身近に置いておくことができています。
(逆にいえば、昨年、一昨年は年鑑号のアンケートに回答することは心苦しいものがありました。)

詳細は、本誌をご覧いただきたく思います。

アンケートの自由記述の欄には、2022年に亡くなった、青山真治監督、鈴木志郎康さん、ジャン=リュック・ゴダールのことについて書きました。
アンケート回答の掲載文は字数制限があるので、ほんの短い文章となっています。

この場を借りて、改めてご冥福をお祈りいたします。

本誌で書ききれなかったことをここで。

青山ゼミで出会った仲間、録音として参加し作り上げたドキュメンタリー映画『漠』、講義の合間に青山さんを囲んで駒場キャンパスの片隅で煙草を吸いまくっていたこと、僕の履いていためちゃくちゃフレアでスカートのようなジーンズを「それ、いいね。西部劇?」と言って笑っておられたこと。
2001年春に新宿武蔵野館で『ユリイカ』を観ていなければ今の僕はなかったと思います。

 

鈴木志郎康さんの教えを受けた人が親友に居ることがあったり、志郎康さんの追っかけをしているような方と18歳で出会ったこともあり、志郎康さんの個人映画をたくさん観ました。『映画素志ー自主ドキュメンタリー映画私見』は、土本典昭小川紳介、そしてなによりも福田克彦の映画の観方を導いてくれました。因みに、生涯ではじめて手に取った現代詩文庫は、『続・鈴木志郎康詩集』でした。明石市立図書館にあったものを部活を引退して燻っていた高校2年生の冬に。

なぜか、志郎康さんのことは周りの人たちが皆、「志郎康さん」と呼んでいました。そのことこそが鈴木志郎康という表現者の在り方を象徴しているように思います。

 

J.L.G.。
あなたの最期には言葉を失いました。最期まで、私たちに「問い」を投げかけてこの生の舞台、生のスクリーンから姿を消して行ったのだとしたら、あなたは格好良すぎると思います。僕は、あなたの作品たちに出会わなければ、映画というジャンルを好きだったとしても、決してそれが「カッコいい」ジャンルだとは認識していなかったでしょう。僕にとって、「カッコいい」は全てです。あなたはその意味で、僕にとって全てでした。

アデュー、ジャン=リュック。誕生日おめでとう。

f:id:LivingEND:20221203160501j:image

Stilling, Still Dreaming. その1

思えば、随分と遠くへ来た。

この10月で岡山での精神科訪問看護の仕事に就いて、2年半が経つ。ピアスタッフ兼看護師として、ようやっと自分なりの訪問スタイルを確立できるようになった。
精神科訪問看護は、アウトリーチと呼ばれるように、利用者さんのお宅にお邪魔し、なにがしかの支援を行っていく。訪問車には、薬、血圧計、体温計、サチュレーション・モニターの他、マラルメの詩集や天文雑誌、釣り道具などが積んである。どれも訪問に必要なものだが、僕は基本的に体温計、薬以外は手ぶらで訪問を始めることにしている。僕らにとって一番の武器になるのは、自分自身の心と身体なので、できるだけ身軽な方が良いからだ。そして、何よりも僕らの訪問先では、過去の経験から、強烈な医療不信を持っておられる方もいるので、血圧計ですら彼・彼女らを無意識のうちに脅かしうることがある。そういうことは是非避けたい。だから、身体科の既往があって血圧測定がマストな場合を除いて、ほとんど手ぶらで僕は、お宅へ伺っていく。対話と少しのバイタル。これが僕の手持ちの武器の全てだ。そして、これで大抵なんとかなっている。日々、通い詰め、馬鹿話や笑いや少しホッとできる瞬間や、時にはほんとうに辛くシリアスでどうしようもなく不条理な話を聴く瞬間や、ただただその時間を積み重ねていくこと。それが、利用者さんのリカバリーにボディブロウのように効いていく。そして、その積み重ねられた「時間」が、クライシスに陥ったとき、どうしようもなく病院へ入院せざるを得なかったとき、その方にとって望みを捨てないでいられる、小さな小さな石礫となる。そういうことを僕はこの2年半で身に染みて学んだ。さらに、その利用者さんと僕の「あいだ」にある時間こそが、僕自身を癒やし、自身の在り方を見つめ直させ、何よりも僕をリカバリーの途上へと導いていったのだった。

15年前、2007年の10月は、友人と仙台に旅行に行った。
西宮の山の中にある精神科単科の病院から3ヶ月に渡る入院を経て「娑婆」に、「下界」に、降りてきてすぐの頃だった。フルキャストスタジアム宮城に、友人と楽天を観に行った。というか、山﨑武司を観に行ったのだった。入院中、山﨑の背番号の書かれたリストバンドを左手首にずっとつけっ放しにしていた。なんとなく、御守りのようなものだった。山﨑はホームランギリギリの大飛球を放った。レフトフライだったか、レフト線への大ファウルだったか、今になっては思い出せないでいる。生涯阪神タイガースのファンである自分であるが、2007年の山﨑武司には、異様に惹きつけられていたのだった。

時間を3ヶ月ばかり巻き戻そう。
2007年6月17日の夜更け頃、僕はある一室で4人くらいの警察官に囲まれ、精神保健指定医に聴き取りをされていた。医師は言った。「ここで、嘘ついたらあきませんよ。」僕は、医師に問われた事項のうち、東京の家にある薬のストックの種類についてのみ答えた。それ以外は、黙秘していた。パトカーに揺られ、一緒にここまで来ていた母親が、隣でどういう表情をしているのかは窺い知れなかった。ただ、1人の警察官が机に腰掛けて、脚をぶらぶらさせているのが、僕に妙な感じを与えた。その後、暗い廊下を1人の看護師らしき人に案内され、突き当たりの部屋に通された。蛍光灯の白い光のなか、部屋の六面がすべて緑色であった。おまるの剥き出しの便座、ベッド、鉄格子のついた窓。促されるまま、ベッドに寝かせられた。抗う気もなかったが、きっとここで処刑されるんだろうな、という確信とここは病院であるらしいな、という感覚のなか、ベッド上で四肢を拘束され、胴体もバンドのようなものが巻かれ、近づいてきた白衣の人に無言で右上腕に注射を打たれた。嗚呼、こういう死に方は友人たちや家族に申し訳ない気がした。施錠された分厚そうなドアの上には監視用なのか、モニターが設置されていた。最期に、何をしようかと思って、なぜかマスターベーションでもしようかと思ったが、腕は両側ともバンドで拘束され動かせないので、そういうものか、と思い、眼を閉じた。隣室からなのか、「看護師さん、看護師さん、×××ですよ!」という叫び声がずっと聴こえていた。翌朝眼を覚ましてから、僕の3ヶ月に渡る、ロング・サマーが始まった。

保護室と呼ばれる部屋に居ることは、翌朝食事と髭剃りに来た男性看護師が教えてくれた。「ここは、西宮の甲山というところにある病院です。それだけは覚えていてください。」と言っていた。相手の眼が血走って涙ぐんでいるように見えたが、単に寝不足だったのか、それとも僕の置かれている状況になにがしか、思うところがあったのか分からなかった。僕は、石原慎太郎を暗殺しようとし、それが事前に露見して、公安に追われていた。今となっては、妄想と呼ばれるような現象であろうが、精神の当事者にとって押し並べてそうであるように、「妄想」は当人にとっては一個の現実に過ぎない。僕は、政治犯として捕まっていると確信していたので、食事摂取は当然拒否した。そして、ハンストと緘黙を貫いていた。日が沈み、また日が昇り、日が沈みまた日が昇った。この天井含め全ての面が緑色の部屋で、3日が経過していた。毎日、男性看護師が代わる代わる、食事と薬を持ってきた。食事は拒否できていたが、少なくとも薬は飲んだフリをするまで、その場を皆離れなかった。黄色い丸いラムネのような薬。今ならば、ジプレキサのザイディス錠であったことが分かるのだが、その緑の部屋に居る僕に勿論、配られる薬の名前など伝えられることはなかった。何か自白を強要されるような薬と思っていた。ただ、口に含むとこの黄色い薬は、溶けてしまうのだった。ハンストを続けて3日目、この薬を飲み始めてみて、異様に腹が減ることにきづいた。空腹の絶頂のタイミングでカレーライスが運ばれてきた。僕は、嗚呼、これで石原に負けるんだなと思いながら、一口カレーライスに手をつけた。そこから二口、三口、四口と。気づけば完食していた。何かがその瞬間崩れ落ちた。依然、緘黙をつづけていた僕は、詰所らしきところに行き、身振り手振りと筆談で「ペンと紙が欲しい。」と伝えていた。小さなメモ帳とボールペンが要求通り、与えられた。そして、ここから本当の意味で「地獄」のような「戦場」のような閉鎖病棟での暮らしが始まったのだった。

(その2、へ続く。)

Für Prof. Y. M.

2020年1月26日、国家試験まで19日となっていた。僕は、大学のカフェテリアで、拳大の握り飯を齧りながら、明石市立図書館で借りている文庫本『西洋古典学入門ー叙事詩から演劇詩へ』(久保正彰)を眺め、束の間の息抜きをしていた。文庫版あとがき、に目をやって、その「です・ます調」の3頁程の文章を読んでいると、号泣している自分がいた。自分でも驚いたのだが…

 

本日は、2020年2月21日。6年間お世話になったM先生の最終講義を拝聴し、解散したところだ。先生の学恩に感謝し、以下の文章を記しておく。

 

 

 

先生から、何度もお聴きした先達の逸話でこういうものがあります

 


ある西洋古典学者が

自分の煙草の箱を差し出し

徐に一本火をつけると

傍らに居た彼の弟子にも

一本勧めました

 


弟子は自分は煙草を吸わないので

と断りをいれると

かの西洋古典学者にして哲学の徒であるその人は

 


Philosoph muss laufen.

 


といったそうです

 


これは、我が国に

西洋古典学なるものを導入したといってよい

ケーベル先生と

その弟子田中美知太郎先生の逸話です

 


私はこの逸話が大好きです

私自身がヘビースモーカーであったことは傍におくとしても

 


先生の研究室で

つい最近、須藤凛々花の

著作「人生を危険にさらせ!」

が書架にあるのをおみかけしました

 


りりぽんこと、須藤凛々花とは

NMB48のメンバーにして

アイドル「卒業」後

哲学者になりたいと公言されている方です

 


私が、先生に

「いったいいまの時代において哲学者になるというのはどういうことなのでしょうか?そんなことは可能なのでしょうか?思想家や哲学研究者でなく、哲学者になるなどということが」

 


そう申し上げますと

 


先生は、普段通り穏やかな表情でおおよそ次のように仰いました

 


「哲学とはフィロソフィアの謂いであり、古典語の語義通り、知を愛する、の言い換えでしかあり得ません、その意味で、誰しもが哲学への道を開かれているのであり、誰しもが本来的に哲学者になる、知を愛する者になる、ことができるのです」

 


差し詰め、

Wir,  Philosophen können lieben Realien.

といったところでしょうか

 


これが私の先生に採点していただく

最後のドイツ語作文となりそうです

 


Y. M.先生、御退官おめでとうございます

 


先生と同時期にこの大学にいられたことの僥倖を思うと同時に、先生の学恩を頭と心に刻み、今後、ひとりひとりの「病む人に固有の教え」ーこれは申し上げるまでもなくドイツの医学哲学者ヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼカーの言葉ですがーに耳を傾けられ続ける看護者として、頑張って参りたいと思います

 

先生の薫陶を受けた学生すべての思いを込めて

 

 

追記)最初の煙草をめぐる逸話は、ケーベルと西田幾多郎のものだったようです。M先生から直接の指摘がありました。文章自体はそのままにしておきますが、私の記憶違いであること明記しておきます。

翌日談

一日経ち、本日は1月9日。

朝、久しぶりに親父に会った。親父はいつも通り新聞を読んでいた。

最新のニュースで、イランの攻撃が、倉庫等に限定されており、また、事前にイラクにミサイルが着弾することを通告していたことも明らかになった。米軍に人的被害は出ていない。イラン側は、アメリカ人80人を殺害したと対内・対外的に発表している。

親父は言う。
ー全て出来レース

ハメネイは、昂った国民感情をおさめるためにミサイルぶち込んだってこと?

ーまあ、そうやろ、哲明、大国のゲームに乗るな

ーおお、うん

親父はよく分からないところもある人だが、一貫して冷静であるのかもしれない。

サヘル・ローズTwitterを読んだ時から、こりゃ冷静にならなと冷や水を浴びせられてはいたんだが。

 

最後に、もう一度はっきりと言っておこう。

《俺は、戦争は絶対に嫌だ》

因みに、家族というのはありがたいと近頃つくづく思う。
最も近くにいる他者だから。

妻が最も心を痛めているのは、中東の情勢でも、ましてやゴーンの記者会見でもない。4ヶ月以上続くオーストラリアの大火災、のことだ。動物たちのことを話題にすると、それは今はやめて欲しいと言われた。妻は涙を堪えていた。これに対しては、僕たち一人ひとりが十分に立ち向かうべきこと、立ち向かえることだと思う。今、二人で最も有効なアクションが何か模索している。

妻は言う。
ーあんた、変な原稿引き受けたら、即離婚やからな

ーわかってる、俺は詩人だから、俺には詩しかないから。散文で言えないことを表現するために、詩と出会ったから。詩は、最も遅れてくるメディウムだから。

俺は、いつだって、最後方に陣取って、必ず漏らさず《記録》していきます。詩の形で、いずれ、残していきます。何年後か何十年後かは知らないが。

Back to WORK

30年前、僕は7歳だった。小学校2年生、学級委員長をしつつ、新任で24歳だった木村先生のかわいがりを受けていた。理由は余り分からないが、一週間に一回は居残りで立たされ、反省させられていた。

当時の僕は、テレビ映画で観た『ダイハード』の中盤のシーンを再現するちょっとした芸で、クラスの人気者になった。ブルース・ウイリスが、最上階からエレベーターにプラチック爆弾を投げ入れる、例のシーンだ。

その後の僕のレパートリーは、アイルトン・セナの事故を見よう見まねで再現すること、ついで、クラスメイトに最も受けたのが、スカッドミサイルをパトリオット弾が撃ち落とす、その戦争の様子の興奮気味の再現実況だった。

僕は無邪気で、とっても残酷だった。クラスメイトも児童期前期特有の嗅覚として大人の面白がらないような「不謹慎」なネタに喰いつきが良かったのだと思う。

約30年経った。
僕は37歳になった。

今日の朝霧は、爆弾低気圧が過ぎ去り、風が吹き荒ぶなか晴れ間がのぞいている。

僕は、ソレイマニの3日間の喪があけるという1月6日から、BBC、CNN、朝日新聞のアプリの通知をそれぞれオンにしていた。VICE newsへアクセスする頻度が一気に増えた。

8:52 イランの複数のミサイルが、イラク内の二箇所の在留米軍基地を攻撃。

10:09 イランの報復攻撃 軍事作戦名「殉教者ソレイマニ」に決定。

二つの通知が朝日新聞から僕のiPhoneに届いた。

僕は大学に向かって、自転車を漕いでいた。随分と風が強い。向かい風に倒されぬよう、自転車のギアを落とし、それでも自転車を飛ばしている。

殉教者ソレイマニ。

その文字面を観て、突然に涙が溢れ出した。

イランに行ったことなどない。アメリカも、また。

37歳になった僕にとってイランとは、漫画『ペルセポリス』の国であり、アッバス・キアロスタミの国だ。同様に、ハミッド・ダバシによって知ってきた国であり、ジャファル・パナヒの国だ。

トランプは、既に報復攻撃に対して文化財を含む52箇所への攻撃を加えることを予告していた。現時点では、状況を“monitoring”していると、BBC newsは伝えている。

僕は、戦争は嫌です。

僕自身は、非暴力不服従を貫いて生きて行きたい。

だが、それでもなお、たとえば、昨日のソレイマニの故郷での追悼式の様子を映像で観、ソレイマニの娘の演説を観、もはや誰も止められるものはいないのだろうか、と。

イランには誰一人友人も、知り合いもいないが、
イランに住む彼ら、彼女ら、イラン国民の感情を慮るに、「非暴力不服従」を今のイラン国家に望むのは、おそらくtoo demandingなのだろう。

訳などない。

ただただ、涙が止まらないだけだ。

Joey Bada$$は言う。
アメリカには申し訳ないが、トランプ、俺はお前の一兵卒にはならねえ

The Weekndは言う。
ー仕事に、作品に戻れ

《俺は、俺たちはこんなにも無力なんだろうか?》

www.youtube.com

Hopefully for all the hopeless

something desparate and something hopeless 

are coming to us.

but,

we can also stay together.

back to our routines and back to work,

watching our steps and watching the steps next to ourselves.

Hopefully for all the hopeless.

Kacho Tsukitei wa “always” saiko desu.

POETRY, always watching our steps,
welcomes  to NEW decade.

2020. 01. 04.

 

www.youtube.com



 

夜のピアノ

昨年末の紅白で、上沼恵美子のラストのコメントを聴き、咄嗟に思い出したのが、たかじんが死んで一発目の上沼・高田のクギズケ!での上沼さんの語りのことだった。

YouTubeをdigっているとその時の録音をみつけた。聴きながら、三ヶ日だというに思わず震えるほど泣いてしまった。

たかじんがシンガーだったという上沼さんの追悼の言葉はその通りだと思う。上沼さんは言う。「たかじんさん、私は関西ローカルタレントです。あなたもそうでした。たかじんさん、あなたは、ほんまのほんまのとこ、紅白出たかったでしょう。東京が嫌いやとかどうとか口では言うてらっしゃったけど。来世であなたが紅白に出たら、その時私は司会を…」

たとえば、「夜のピアノ」。
どう考えたって素晴らしい歌じゃないか。

たかじんが死んで丸6年。俺は、部活を辞めて引き篭もってた高2の冬の二ヶ月間、あなたの番組でどれほど救われたか知らない。

 

www.youtube.com