UTA TO WAKARE.

傷ついても陽を浴びた要約がある

佐藤さんのこと

きょう九月四日は、故・佐藤真監督の命日である。十年前の九月四日は、私は西宮の山の中にある病院の中にいた。新聞を読むことが日々の喜びであり、毎日ラジオ体操をした後は、朝刊に目を通す日々であった。退院の話が出始め、にわかに心がワサワサしていた九月中旬だったと思う。毎日新聞に、佐藤さんが亡くなられたこと、佐藤さんを追悼する映画批評家の記事が目に入った。

 

私自身が、しょうじき生きるか死ぬかの日々であった。入院先でできた、友人たちの力を得て、何とかもう一度、生きようとし始めていた時であった。

 

佐藤さんの訃報を知って、変な言い方ではあるが、驚きはなかった。いや、驚いたのは間違いないが、なんだか、「ああ、そうなんか…」と独りごちたと記憶している。

 

その後、十年前の九月下旬に私は退院し、三ヶ月のサマー・ヴァケイションのようなものを終えた。退院する前日、同じ病棟で知り合った人たちが、お祝いにと私を囲んで大富豪をしてくれた。あの西宮の山の中で出会った人びとの顔と名前、忘れたことがない。否、人びとがたとえ日々の雑事のなかでさまざまなことを忘れていくとして、「おれは忘れない」という一心で私はあれから十年なんとか生きてきたんだと思う。

 

東京に戻って、大学に戻って、ふと生協の本売り場を歩いていたとき、佐藤さんの随分とお痩せになった写真が目に飛び込んできた。佐藤さんのお別れ会が行われており、その際に配布されたろう冊子の表紙にその写真はあった。

 

私は、2001年に上京し、やや世を拗ねており、ひたすら焼肉屋でバイトをしては大学にはまったく顔を出さず、映画館にばかり通っていた。新文芸坐では大島渚特集に足繁く通った。新宿や渋谷に鈴木清順の特集のためにほぼ入り浸っていた。高校生のとき、どうしてもみたかったが見逃していた青山真治監督の『ユリイカ』を新宿武蔵野館でみられたときは、今後、映画と心中したいと思った。それがどんな形ではあれ、映画に携わって一生を終えられたらどんなに幸福だろうかと思っていた。

 

上京してはじめての夏が来ようとしていた。私は寂しかった。ほとんど誰ともことばを交わさない日々に耐えられなくなり始めていた。映画、映画、映画!と虚勢をはっていた。大学にまじめに通うような人たちを心底軽蔑することで、なんとか二足歩行を保てていた。しかし、しょうじきに言えば、誰かと話がしたかった。みた映画について、一言でも二言でもことばを交わせるひとが欲しかった。

 

佐藤さんがBOX東中野で、「ドキュメンタリー考座」という一年間、映画をみては対話を行う講座の企画をされることを、どこかの映画館のチラシでみて知った。これに賭けてみたい、そう思った。とはいえ、ドキュメンタリー映画ときいて、思いつく映画がなかった。私は、高校生時代、神戸の片隅で、ただただテレビに齧りつき、テレビ映画をビデオに録画しては繰り返し好きな映画をみていたような人間だ。地元の高校生として、劇場に通ったのは唯一六甲アイランドシネコンで『リング』をみたときだけだ。あとは、ひたすら、WOWWOWの番組表とTSUTAYAの映画特集のブックレットと、バウンスの映画音楽特集を睨み続けるだけの高校生だった。

 

そのドキュメンタリー考座には、十万円必要だった。バイトの量を増やした。飯を食うのが不経済な気がして、十万円が手もとに貯まった頃には随分骨ばった身体になっていたように思う。順序が逆と思われるかもしれないが、佐藤監督の映画をみたのは、BOX東中野の考座に申し込み、十万を振り込んだ後である。

 

『SELF AND OTHERS』をみたのがどこの映画館であったか覚えてはいない。ただ、うん、十万円ももう払った、この監督の考座とやらに、ひとまず賭してみよう、そう思ったことは覚えている。

 

それから、翌年の夏まで、佐藤監督のドキュメンタリー考座は続いた。しかし、私は秋冬をほとんど参加出来ていない。めちゃくちゃな生活と自分自身の東京へのコンプレックスと何ものにもなれないでいることの焦燥と、そのほかやはり一番は自分を持て余すほどの他人の温もりへの餓えと、それらが確実に私を蝕んでいた。

 

2001年、山形国際ドキュメンタリー映画祭に行ったあと、私は東京での生活が不可能となり、ただただ引きこもっては苦しい苦しい秋冬を過ごした。

 

山形の十月は寒かった。私はたぶん季節とか土地とか服装とか何も考えられないような阿呆で、ほとんど手ぶらに寝袋だけ持って山形へ行った。ドキュメンタリー考座で知り合った、Yさんやもう一人のYさんにはほんとうに世話になった。考座の世話人のSさんにもまた。

 

山形で、その年、佐藤さんはアジア千波万波の審査員をされていた。ロバート・クレイマーの特集をしている会場で、佐藤さんと会い、Sさんも居て、私が手ぶらで来たことを知ると、「藤本くんは、若いから少し苦労したほうがいいよ、たとえば、橋の下で寝袋で寝るとかさ、山形はもう夜は寒いよ」と笑いながら仰っていた。結局、Sさんのつてで、ゲストハウスにねじ込んで貰えたのだが、山形の十月はほんとうに寒くて、古着屋でジージャンを買ったのを覚えている。たぶん、ロングTシャツと下着の替えくらいしか持っていなかったのだろう。

 

 

佐藤さんは、何をしたいのか分からないでいるただただ映画、映画と頭のなかで唱えている18歳のガキに随分と良くしてくださった。

 

 

ドキュメンタリー考座での、佐藤さんの講義録はいまでも参加したぶんは全てとってある。Sさんが毎回用意してくださっていた資料などとともに。

 

 

その後、法政大学での佐藤さんの集中講義や、『阿賀の記憶』が上映される京都造形芸術大学での是枝監督との特集会など、場所を問わず、行けるときには佐藤さんの映画やドキュメンタリー映画に関する場に足を運んでいた。

 

 

ひとつ、ここに書き残しておきたいことは、佐藤さんが、私と私の友人Hの学祭での二人展にゲストとして来てくださったときのことだ。2002年の五月のことで、私とHは、バナナに関する二人展を行っていた。佐藤さんとバナナに関することでお話をしたことがあり、佐藤さんのテレビ・ドキュメンタリーである『日本NGO とバナナ村の10年』を上映させて欲しいとお願いすると快諾してくださった。そのうえ、前々日に「行きますよ、バナナに関すること、やるんだよねえ」と仰って、二人展に顔を出してくださった。隣の部屋が、バンド演奏か何かをしていて、上映環境としてはあれだったに関わらず、佐藤さんと10名足らずの来場者と私たちはそのテレビドキュメンタリーをみつめていた。佐藤さんに一言お願いすると、「ええっ!」と仰りながらも、バナナのことや映画のことを30分近く話してくださった。

 

 

佐藤さんが亡くなられたあと、私は結局八年かけた大学を中退し、帰郷してサラリーマンになった。その会社も一年半しか勤めず、いまは詩など書いて生きている。映画のことを頭から消したことは一度だってないが、劇場に足を運ぶ回数はめっきり減ってしまった。

 

 

佐藤さんとお会いしたら、ぜひ話したかったことはいくつかあったはずだが、たとえば『鉄西区』のことやアレヤコレヤ、あったはずだが、いまは思い出せない。

 

最後にお会いした時、いつものようにレモンサワーを呑みながら、「そんなだから藤本くんは留年するんだよ」と笑ってらっしゃった顔、忘れられない。そう言いながら、藤本くんは貧乏そうだからと言って、私の飲み代を出していただいたこと、忘れられない。

 

佐藤さん、私はなんとかやっています。

佐藤さんにはじめてお会いした時から十七年も経ってしまいましたが、私はなんとかやっています。

 

いつか、佐藤さんの御恩に報いられる仕事を成そうと思い続けていまも、生き続け、書き続けています。