Für Prof. Y. M.
2020年1月26日、国家試験まで19日となっていた。僕は、大学のカフェテリアで、拳大の握り飯を齧りながら、明石市立図書館で借りている文庫本『西洋古典学入門ー叙事詩から演劇詩へ』(久保正彰)を眺め、束の間の息抜きをしていた。文庫版あとがき、に目をやって、その「です・ます調」の3頁程の文章を読んでいると、号泣している自分がいた。自分でも驚いたのだが…
本日は、2020年2月21日。6年間お世話になったM先生の最終講義を拝聴し、解散したところだ。先生の学恩に感謝し、以下の文章を記しておく。
先生から、何度もお聴きした先達の逸話でこういうものがあります
ある西洋古典学者が
自分の煙草の箱を差し出し
徐に一本火をつけると
傍らに居た彼の弟子にも
一本勧めました
弟子は自分は煙草を吸わないので
と断りをいれると
かの西洋古典学者にして哲学の徒であるその人は
Philosoph muss laufen.
といったそうです
これは、我が国に
西洋古典学なるものを導入したといってよい
ケーベル先生と
その弟子田中美知太郎先生の逸話です
私はこの逸話が大好きです
私自身がヘビースモーカーであったことは傍におくとしても
先生の研究室で
つい最近、須藤凛々花の
著作「人生を危険にさらせ!」
が書架にあるのをおみかけしました
りりぽんこと、須藤凛々花とは
元NMB48のメンバーにして
アイドル「卒業」後
哲学者になりたいと公言されている方です
私が、先生に
「いったいいまの時代において哲学者になるというのはどういうことなのでしょうか?そんなことは可能なのでしょうか?思想家や哲学研究者でなく、哲学者になるなどということが」
そう申し上げますと
先生は、普段通り穏やかな表情でおおよそ次のように仰いました
「哲学とはフィロソフィアの謂いであり、古典語の語義通り、知を愛する、の言い換えでしかあり得ません、その意味で、誰しもが哲学への道を開かれているのであり、誰しもが本来的に哲学者になる、知を愛する者になる、ことができるのです」
差し詰め、
Wir, Philosophen können lieben Realien.
といったところでしょうか
これが私の先生に採点していただく
最後のドイツ語作文となりそうです
Y. M.先生、御退官おめでとうございます
先生と同時期にこの大学にいられたことの僥倖を思うと同時に、先生の学恩を頭と心に刻み、今後、ひとりひとりの「病む人に固有の教え」ーこれは申し上げるまでもなくドイツの医学哲学者ヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼカーの言葉ですがーに耳を傾けられ続ける看護者として、頑張って参りたいと思います
先生の薫陶を受けた学生すべての思いを込めて
追記)最初の煙草をめぐる逸話は、ケーベルと西田幾多郎のものだったようです。M先生から直接の指摘がありました。文章自体はそのままにしておきますが、私の記憶違いであること明記しておきます。