UTA TO WAKARE.

傷ついても陽を浴びた要約がある

同時代ドキュメンタリー作家に関する一考察(2010.8.)

 「他者=他なるもの」とは、おそらく、この「わたし」に特有の体験からやってくる共感や理解をはねつけるような固有の実存を抱えた存在だろう。 梶井洋志の制作した『遺言なき自死からのメッセージ』は、そのことを強く意識させる。梶井は、父親自死という体験の意味を共有すべく、同じように近親を亡くした大学の後輩にアプローチしていく。自分自身の形容しがたい感情や想いをなんとか他者と共有する目的で、あくまで、「わたし」自身の事情から、言い換えれば、「私性」から出発していると云えるだろう。しかし、その被写体である後輩は、カメラを持って近づいて行く梶井にとって、圧倒的な他人としてスクリーンに描き出される。執拗に自死の原因を求める梶井に対し、後輩のほうは、そんなことは解らないし、いまとなっては興味もないし、さらには「おかあさんにとっては死が幸福だったかもしれない」とまで漏らすのだ。同じ、近親の自死という体験を経ていても、二人の認識には余りに大きな隔たりがある。その認識の差にぶつかったうえで、なお、何故彼女の母親が亡くなったかを追い求めて行く梶井の姿は、一種異様であり、その行動は不可解にさえ映る。しかし、結果的に、梶井自身が(観客である、「わたし」にとっては)とても理解できないような行動に出ていること自体、そこへと向かわせる衝動の強さを浮き彫りにし、同時に、近親を亡くすことの言表しがたい重さという次元での「理解」を生み出している。

そのことは、映画のなかで何度も挿入される梶井の子どもの頃の家族の記録映像のなかに、一切父親が姿を見せず、あくまでその「声」のみを残していることや、亡くなった場所である階段を梶井が何度も観客に提示せざるを得ないこと、ある決定的な時間と場所で作家自身の時間が永久にとまってしまっているかのような事態からも、如何に作家自身が観るものにとって最大の「他者=他なるもの」として出現してしまっているかを痛感させられる。梶井洋志は、処女作の題材として、一見極めて「私性」の要素の強いものを選んでいるが、観終わったものに残されるのは、如何に「わたし」の実存から発せられる声を気にかけ、それに答えることがむつかしい行為であるか、というその一点だ。梶井は、その声高に思える「何故、亡くなったと思いますか」という質問の繰り返しの裏で、自身のかぼそい実存の声を、「他なるもの」の声を、ひっそりと共鳴させている。

梶井の作品が、「私性」から出発し、その「わたし」の時空間を氷結させることを経て、「他なるもの」を提示することに成功しているのに対し、『空っ風』(中村葉子)は、「他なるもの」の声に寄り添うこととそれに応ずることの狭間で引き裂かれることを、実直に選びとった作品と云えるかもしれない。再開発の波にのまれる千里ニュータウンにおいて、圧倒的に強者であるリクルート・コスモス社に訴えられ、立ち退きを迫られる被告として裁判闘争を続けるひとびとの、悲痛なまでに小さな叫びや怒りに、あくまで寄り添おうとする中村の姿勢は、何が正であり何が不正であるのか、その根拠が曖昧化され、相対主義の隘路に陥りがちな現代において、不正の根拠という理知的な面からだけではなく、ひとの生存にとって何が守られるべきことであったのかを事後的に説得させるような力強さと繊細さを兼ねそろえている。それは、丹念に「他なるもの」の声に耳を傾け、寄り添うことで成立しているのだが、一方でこの映画が終盤に向けて、ともすれば幸福とは云えない被写体との関係に向かって行かざるを得ないのは、「他なるもの」の声に寄り添うことと、それに応じて、その要求を実現しようとする「わたし」の行為が、必ずしも一致しないことの証左だろう。

こと『空っ風』に関して、制作者が当事者以上に当事者であろうとする態度は、制作者の表現欲求だけに還元することはできそうにないし、観終わって二ヶ月経つ現在においても、歯切れ良い答えを自分自身のなかで用意できそうにもない。ただ、被写体の哀しみとそれに寄り添うことを単純には貫くことのできない制作者の哀しみという、二重の哀しみを経た、「他なるもの」に接していくうえで直面せざるを得ない、「引き裂かれ」のただなかにあって、監督である中村の誠実さは一度もぶれているとは云えないだろう。「わたし(たち)」は、そこから出発していくことしかできはしない。

 

(「彷徨する魂〜NDUからNDSへ〜」へ寄せて)