UTA TO WAKARE.

傷ついても陽を浴びた要約がある

寺山のこと

一と二、主体の傷。

それがタイトルである。ここ一年近く寺山修司について小論を書こうとしてきた。タイトルが一週間まえに決まった。題が決まると、茫洋としていた考えが、ある程度輪郭を持つ。持ち始める、から不思議だ。いぜんのタイトルは、その意味では名付けることによって余計に混沌とするものだったので、おそらく題として不適格だったか、題を付ける過程に無理があったのだろう。

さいしょは、ジャンルについて書こうとした。ジャンル横断をする仕事をしながら、寺山自身が、あなたの仕事はなにかと尋ねられ「寺山修司という仕事をしている」と即答したらしいことに関心があった。「劇作家」でも「詩人」でも「歌人」でも「俳人」でも、或いは「作家」でもなく、自身でも他人からも「寺山は寺山修司という仕事をした」と言われることの幸福とか不幸について思いが巡った。幸福ということが頭を過ったのは、寺山自身がこの概念に異様に拘りを持っていたからでもある。

寺山修司が拘りを持つ言葉に「健康」とか「幸福」とかいうものがある。或いは「自由」であるとか。

これらは、寺山修司の内部で屈折をみないかのように差し出されるのが不思議であった。確かに、陰気で不健康で不自由そうに見える戦後の文芸や芝居の空気への反発もあったろう。しかし、その反発からといういじょうに、健康や幸福を肯定する時、そこで担保になっているのが、「想像力」とか「自由」という言葉への寺山修司特有の捕まえ方があったように思う。

ーーどんな鳥だって
  想像力より高く飛ぶことはできない
  だろう

「事物のフォークロア」のなかの有名な詩句である。

たしかこのパッセージに接したのは十代終わり頃であったが、なんとも素朴なことを言う人だと思った。たとえば「想像力は死んだ。想像せよ」という警句を知ってはいた者にとって、いっしゅ素朴にすぎるように、何を暢気なことを…と映ったわけだ。

しかし、この寺山修司の詩句の含意には、想像力の素朴な肯定というより、想像力が行為を規定し、限界づけることという少しばかし苦い認識の方へおそらくはアクセントが置かれている。

永山則夫との長い応答の中で、たとえば寺山は自身を「劇のなかに現実を求める」のに対して永山を「現実のなかに劇を求めた」と規定する。そのあっさりした断定がいかほど永山事件を引き起こした少年永山の心理を言い当てているかは知らない。しかし、上記のような規定を行うとき寺山修司の頭にあったのは、「世界の涯は見えるところまでにしかない」という認識だろう。

寺山は、二つのものをよく比べた。いや並べたという方が適切か。歴史と思い出、記憶と愛、経験と物語。「二」という数にこだわって二つのものを並べる手つきには、やはりというべきか性急さと快楽が並びあっている。長谷川龍生が指摘するように、その間で熟してゆくものが見当たらないのだ。

寺山修司は傷を持たない。

そういう結論だけが直感としてある。それは、抒情主体が負う、或いは負いうる傷を受けないということだが。

戦後詩の論争において、ひときわ異臭を放っているようにみえるのが、この抒情主体は作者と乖離しうるか、という論点だと私は感ずる。

1960年代後半に、入沢の提起した「詩は表現ではない」というテーゼ。一般に、詩行における「話者」と「作者」を切り離したとされるあれ。

詩行を書くものと詩行内の語り手はたしかに別の主体である。そこまでは、おそらく誰しもが納得しうる(だろう)。

しかし、こと抒情詩という形式において、「話者」が「作者」と無関係にいられるのか、その焦点に向かって(解読しづらくはあるが)、無関係ではいられない、と執拗に繰り返したのが北川であった。

入沢ー北川論争に寺山修司がどういう感じ方をしていたかはわからない。関心がなかったようにも思える。寺山修司の詩行における航路は、戦後詩のコアとされているものと、それ程錯綜したとは思えない。寺山修司の書いた詩行の伸びやかさ、健康さ、そして性急さは、戦後詩の悲壮感、シンタックスへの過剰な意識等からみると極めて異例に映る。

黒田喜夫寺山修司の対談が、今回の小論のハイライトとなる。

寺山修司単勝に賭ける競馬ファンのありようを「ローマン主義」として、忌避したように見える。競馬は、自分の似姿を一等の馬に求める抒情詩であってはならない、と。

では、一、でなく二なのか。二頭の馬の対抗するストーリーを競馬の本質としたのか。

様々な場面で、二つを並べる行為を繰り返したようにみえる寺山において、その答えは異なっていた。

出走する競走馬が八頭いれば、八つの叙事詩が産まれる。

寺山の回答には、図らずも「叙事詩」という言葉が浮上する。

じつは、寺山修司の詩的出発である「地獄篇」には、長編叙事詩という冠が着いていた。

一、を忌避し、二、で回収されず、多、を用意して出発した寺山が、果たして、書くという行為自体の経過において、「無傷」であったと言い得るのか。

それでも、傷は負わなかったと云って良い。

抒情主体が書くという行為において、語り手から反射される書き手の傷というものは。

それはなぜか。

その謎を説明すべくここ数日胃が痛んでいるのであった。

(ここには記事を書かないとある人に告げながら、めのまえの原稿からの逃避で書き殴ってしまった)

 

(2014.6.24)